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Từ điển

Chi tiết từ

王常 (後漢)

拠していた鄧奉・董訢の討伐に従軍する。さらに北方へ転じて、河間郡・漁陽郡を平定した。 建武5年(29年)秋には、光武帝に従って蘇茂・龐萌を討伐し、力戦奮闘した。建武6年(30年)、長安に駐屯して隗囂に備える。建武7年(31年)、横野大将軍に任命され、他の将軍よりも高位となる。そして隗囂配下の高峻を朝

Từ liên quan

王叡 (後漢)

霊帝の死後、董卓が政治の実権を握ると、各地で反董卓の兵が起こった。王叡も反董卓連合に加わる予定であったが、その前に不仲だった武陵太守の曹寅の殺害を謀ろうとした。これを知った曹寅は、光禄大夫の温毅の檄文を偽造して王叡の罪を述べた檄文を孫堅に送り、孫堅に檄文を奉じさせ王叡を攻撃させた。王叡はこのことで

後漢

(1)中国, 五代の一。 後唐・後晋の臣, 劉知遠が建てた中原の王朝(947-950)。 都は大梁。 二世四年で部将の郭威に滅ぼされた。 (2) ⇒ ごかん(後漢)

後漢

(1)中国, 劉秀(光武帝)が王莽(オウモウ)の新を滅ぼして復興した漢王朝(25-220)。 都は洛陽。 黄巾の反乱で衰退, 滅亡した。 前漢を西漢というのに対し東漢ともいう。 (2) ⇒ こうかん(後漢)

後漢書

全譯後漢書 本紀1 (光武帝紀 - 和帝紀) 第1冊 ISBN 9784762927041 全譯後漢書 本紀2 (安帝紀 - 皇后紀) 第2冊 ISBN 9784762927058 全譯後漢書 志1 (律暦志) 第3冊 ISBN 9784762927065 全譯後漢書 志2 (儀禮志)

常用漢字

斉 逝 仙 栓 挿 曹 槽 藻 駄 濯 棚 挑 眺 釣 塚 漬 亭 偵 泥 搭 棟 洞 凸 屯 把 覇 漠 肌 鉢 披 扉 猫 頻 瓶 雰 塀 泡 俸 褒 朴 僕 堀 磨 抹 岬 妄 厄 癒 悠 羅 竜 戻 枠 字体を改めた字 当用漢字字体表の「燈」が「灯」に改められた。 音訓が加わった字

王聖 (漢)

し、恣肆暴虐を競った。124年(延光3年)、王聖らは皇太子劉保の乳母の王男や厨監の邴吉を誣告して殺した。さらに皇太子を陥れて廃位させ、済陰王に降格させた。 125年(延光4年)、安帝が死去すると、北郷侯劉懿(少帝)が皇帝に擁立された。安帝の皇后の兄である閻顕が御史を使嗾して樊豊を告発して処刑し

後漢 (五代)

後漢 漢   後漢 後漢(こうかん)は、中国五代十国時代の王朝(947年 - 950年)で、五代のうちの一つの王朝である。建国者はテュルク系突厥沙陀族の劉知遠で、劉姓であることから国号を漢とした。都は開封にあった。 942年5月に後晋の高祖石敬瑭が病死し、その遺志と異なる2代皇帝少帝石重貴が宰相の馮

李豊 (後漢)

梁綱・楽就の3将を陳国に残留させ(『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる)、自分だけ淮南へ逃げ帰った。李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。 小説『三国志演義』では、梁剛(正史の梁綱

張禹 (後漢)

、張禹は3年分の租税を入れさせて、郡国を助ける貸付を行うよう上疏し、認められた。111年(永初5年)、陰陽不和を理由に太尉から免官された。 113年(永初7年)、家で死去した。 張禹は篤実節倹な性格で知られた。 学問を好み、欧陽高『尚書』を学んだ。 父が死去すると、汲県の官吏や民衆たちが数百万の弔

趙昱 (後漢)

耳に邪悪を聞かず、目に虚妄を見ないという様子であった。州郡からたびたび仕官の招きをうけたが、つねづね病気だと言って応じなかった。琅邪相の檀謨・陳遵らが召しだしても応じず、なかには激怒する者もあったが、決して意志を枉げることはなかった。 太常の种払が方正に推挙し、続いて孝廉に推挙され、三署(五官署、

邢顒 (後漢)

後に曹植の下に付けられたが、丁儀のように曹植にへつらう態度を取らなかったため、不仲であった。劉楨は曹植のお気に入りであったが、曹植が邢顒を冷遇するのを見て諌めている。曹操が太子を決める時、邢顒に相談したところ、長子である曹丕を立てるべきと暗に促した。曹操は邢顒の言わんとすることを理解し、間もなく邢顒は曹丕付きとなった。

張挙 (後漢)

挙(ちょう きょ、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将。張純の乱の首謀者。 幽州漁陽郡の人で、泰山太守であった。『三国志』には記述されていないが、『後漢書』劉虞伝などにわずかに記述されている。 187年、騎都尉の公孫瓚を韓遂・辺章討伐の司令官に起用した太尉の張温の対応に不満を覚えた同郷の張純ら

張承 (後漢)

れている。 張範と共に名を知られた。方正として召し出されて議郎に任命され、後に伊闕都尉へ転任した。董卓が政権を握るとこれに反発し挙兵を図ったが、張昭に諌められたため、官を辞して張範と共に揚州へ逃れた。 張範は袁術に招請されるとそれを拒み、張承を代理の挨拶のために赴か

張温 (後漢)

張 温(ちょう おん、? - 191年)は、中国後漢末期の政治家。字は伯慎。荊州南陽郡穣県の人。互郷侯。清の王先謙の『後漢書集解』によると、妻は蔡瑁の伯母。 曹騰に推薦され、尚書郎から司空(前任は張済)に任じられた。 185年に涼州地方で韓遂・辺章の反乱があった際、車騎将軍に任命されて孫堅・陶謙ら

李膺 (後漢)

ました。 今、私は役についてもう10日を過ぎました。ひそかに、罪を暴き死刑にするのが遅くなり、『引延ばしたのではないか』とお咎めをこうむることを恐れておりましたが、逆に『早すぎだ』とのこと。私の不行き届けは重々承知、即刻死罪に相成りましても、苦しゅうはございま

劉英 (後漢)

それに対する異母弟の明帝の措置は、絹を献上することによる贖罪制度であった。その時の詔に、次のような文言が見られる。 「楚王は、黄老(=黄帝・老子)の微言を誦して、浮屠(=仏教)の仁祠を尚ぶ。潔斎すること三月にして、神と誓を為す。何ぞ嫌(うたが)わん、何ぞ疑わん。当に悔吝有るべし。其れ贖を還し以って伊

劉衍 (後漢)

明帝の子として生まれた。72年(永平15年)、下邳王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、章帝が即位すると、常に側近にあった。建初初年に加冠し、下邳国の師傅以下の属官は金帛を賜った。79年(建初4年)、臨淮郡と九江郡の鍾離・当塗・東城・歴陽・全椒の合わせて17県が下邳国に編入された。88年(章和2年)3月、下邳国に下向

劉和 (後漢)

192年、夏4月に董卓が王允と呂布・李粛らに誅殺されると、献帝は劉虞に援けを求め、その子の劉和を使者として遣わしたが、その途中で異母兄の袁紹と身内争いをした南陽太守・袁術に捕らわれて、その下に当分拘束されることになった。翌年の秋7月前後に、劉和は隙を見て袁術の下から脱出し、その異母兄の袁紹の下へ

張羨 (後漢)

羨を破ることはできなかった。 建安5年(200年)、華北で曹操と袁紹が対峙すると(官渡の戦い)、劉表は袁紹に味方した。かつて長沙郡の功曹であった桓階は張羨に対し、逆賊の袁紹ではなく献帝を擁する曹操に味方するよう説いた。張羨が早速曹操に使者を送ると、曹操は大いに喜んだ。 その後、張羨